ショコラティエ

学歴中卒、不登校の私がショコラティエになり、世界一の舞台に立つまで話

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お菓子屋の無い 幼少期

 

兵庫県養父市大屋町という、山と山の隙間のような細い谷の町で生まれました。

そこは今の工房があるところです。

父親は兼業農家、母親は主婦でこの辺りの田舎ではごく普通の家でした。あることを除いては。

それは後ほど。

 

 

父親は山口県から婿に来たバリバリの長州人、山口では当時では皆の憧れの仕事だったある、高速バスの運転手をしていたそうです。今でも自慢げに話ています。

それから大屋町にやってきて母親と出会ったそうです。父は人の2倍以上働き誰もが認めるサイボーグのような強靭さ、そして亭主関白という言葉がぴったりの人です。

母親はふわっとした人で、何事にも動じないというか、あまり深く考えていないのか、気の短い父親とも仲良くやっていける世界でただ一人の奥さんなのでは無いかと思うくらいです。

祖父は口癖が「おじいちゃんは千円札一枚から商売をやってきた!」というこれまた祖父もバスの運転手をやりながら写真屋も経営していた商売人でした。祖父も婿として来た人ですが、こちらもなぜか父に似たタイプの亭主関白です。

 

祖母は母親にそっくりのふわっとした人で夫婦というのはよくできているなーと思います。

そして僕はそのみんなの良いところもそうでないところも受け継いで生まれて来ました。

どちらかというと母方に似たのか、ふわっとしていて基本的に怒ることはないし、穏やかにのんびりと田舎で暮らす幼少期でした。

 

 

初めてお菓子に出会ったのは3歳の誕生日。祖父が写真屋だったので沢山写真は残っていますが、この時の僕の顔はとても良い顔をしています!

よっぽど嬉しかったのでしょうね。なにせお菓子なんて1年に数えるほどしか食べた記憶はなく、田舎町なので町にお菓子屋さんは無く、隣町まで車で30分走らないと行けませんでした。

 

そこからほどなく幼稚園に行くことになりましたが、

初めて幼稚園に行った日のことは忘れもしません。母親の運転で僕は助手席。初日ということもあり、到着すると幼稚園の先生が迎えに来てくれました。

これまで知らない人たちの中で一人という経験がなかったことと、家族から離れたことのなかった僕は、車のシートベルトを掴んで泣きわめき必死に抵抗しました。

なぜそんなに抵抗したのかというと。先生は悪魔のようで悪魔と幼稚園というとても怖い場所に閉じ込められるのではないかという想像力の豊かな子だったからです。

それから3日間は抵抗しましたが、楽しいところだということがわかり何事もなかったかのよう入園しました。

 

 

小学生時代 やっぱり変わった子でした。

 

小学校の同級生は12人。全校生徒でも70人程度。

目の前にはまた大きな世界が広がっていました。6年生のお兄さんたちに連れられて毎日2㎞半の道のりを歩いて登校していました。

今でもそうですが人に媚びるということを知らず、1年生で6年生のお兄さんたちにあだ名で呼んだり生意気な口を叩いていました。

6年生はみんな穏やかでしたが、5年生の男子には生意気なガキが入って来たとボコボコにされました。

 

社会の怖さを知りました。

 

2年生の時ミニ四駆ブーム(走るモーター付きの車のおもちゃ)がやって来ました。ここから僕のカーライフは始まりました。

夢中になると周りが見えなくなるのは父親譲りで、以前ボコボコにされたお兄さんたちに混ざってミニ四駆を走らせ、のめり込みました。

学校では先生に「こうだいくんはみんなと違うアイディアの持ち主です」と言われ早くもその頭角を現していたそうです。

 

3年生では魚釣りにハマり(これも父親譲り)お兄さんがたの見よう見まねで釣り糸を垂らしていました。

4年生でも村の山や畑で焚き火をしたり、遊んでばかりで勉強なんて真剣やった記憶はないです。

 

5、6年の担任の先生が面白い人でここで早くも伝説が生まれました。

毎日最低1時間は先生が好きな話をして勉強時間が潰れるというなんとも自由な先生。保護者からはカリキュラム通り勉強が進んでいないことでクレームが来るレベルだったそうですが、僕たちはそんなことは知りません。

小学生の勉強嫌いな僕たちにとっては最高の時間割でした。

先生はその時間を使って、僕らに大切なことは学校の勉強ばかりではないということを教えてくれたのだと思いますが、あまり内容はあまり覚えていません。

けれども今ではありがたいお話だったのだと思っています。

6年生の頃から何か学校というものに違和感を抱いた僕は学校から足が遠のきました、そして休みがちになりました。

先生は家まで来て「学校行へ行こうや!」と誘いに来てくれましたが、どうにもその気になれなかった僕は家の二階のこたつの中に隠れていました。

 

さすがにそこまでは来ないだろと思っていましたが。先生は体育会系で若く、勢いがあり、二階まで上がって来て僕の両足を掴みこたつの中からまるで漫画みたい綺麗に引きずり出しました。

 

この話は伝説となりこの先生はその次に行った学校でもこの話を語り継いでいるみたいです。

自分と向き合う 中学生時代

 

僕たちの通った中学校は4つの小学校区が一つになりました。人数も増え自由に暮らしていた小学校とは打って変わり、なんだか規則も厳しいしこれまで仲良くしていた上級生は急に先輩風を吹かせて僕たちを見下していました。

それに凄く違和感を覚た1年生の僕は先輩をからかいました。

危うくまたボコボコにされるところでしたが、小学校の時に経験済みなので、それは回避することができました。

 

気持ちも心機一転、勉強に部活、人間関係など一生懸命に取り組みましたが、1年生の中間テストの結果は散々でした。数字というのは残酷なもので僕に現実を突きつけてきました。

ここで好きではなかった数学がもっと嫌いになりました。たぶん。

これま学校の勉強が嫌いで真面目に取り組んだことがなかったのでそれは当然の結果です。

 

環境の変化で色々なことが音を立てて崩れ落ちた瞬間でした。

 

もちろん精神的にも中学生という不安定な時期ということも重なり、体がゆうことを聞かなくなりました。

もともと真面目な性格なので朝起きて学校に行きたかったのですが、起き上がることができないし立ち上がっても立ちくらみのするような状態で、無理して行っても保健室で休むような状態でした。

 

仲良くしていた友達は家に来てくれたり、電話してくれたりして励ましてくれました。

もちろんそれに応えたい気持ちは山々ですが、なにせ自分の体が自分のものではない。という状況でした。

そうしていると次第に友達も来なくなり、自分を奮い立たせて学校に行ってもその友達はもう相手にしてくれませんでした。

友達なんてそんなものなんだと思いました。

 

家で休んでいる時間が多くその間いろんなことが頭の中を巡っていました。

自分の人生は何を成し遂げるためにあるのだろう?どうすれば健康になるのだろうか?これからどうすれば働けるのだろう?みんな違う人間なのに学校ではなぜ同じことを学び同じ方を向いていないといけないのだろう?

3年生までずっと考え自分と向き合う時間でした。

 

はじめは家族にも理解してもらえませんでしたが、でもその間に家業の仕事を少しずつ手伝うようになっていきました。

 

僕のルーツは家業の麦畑自然農場

他の家庭との違いは父親の仕事が養鶏(平飼いの鶏の飼育)と農業(有機無農薬栽培)とサラリーマンを兼業していたことです。

父親がはじめに取り組んだのは農業、きっかけは父親が体調を崩した時に、体は食べ物でできているから生活の基本は食だということを感じたそうで、家族が食べる野菜は自分で安全なもの作らないといけないと思ったことがきっかけみたいです。

 

父親はのめり込むと、とことん追求する人なので、程なくいくら有機無農薬でも堆肥に消毒や抗生物質など色々な薬が使われているものを使っていては意味がないということがわかり、堆肥から安全なものを作るために養鶏をはじめました。

鶏を飼うと卵は食べられるし、鶏肉も安全なものが手に入る一石二鳥だと考えた父は全国から農薬の汚染や遺伝子組み換えでない穀物などを探し自家配合飼料を作り、さらにその餌をEM発酵させ消化吸収をよくした餌を与え、水は山から流れる綺麗な水で、無農薬の野菜くずなどをやり育てるということを今から約25年程前にはじめました。

当時としては最先端だったので誰も理解してくれなかったみたいです。

 

そして僕が小学校の高学年の頃には安全で体に良い甘味料が欲しいということで、ミツバチを飼いはじめて養蜂業も始めました。

この飼育方法も徹底的にこだわり、全世界で使っている西洋ミツバチだけがかかる伝染病に対する抗生物質などを一切使わずに飼育する方法を自分で考え出し、混ぜ物の一切無い純粋な蜂蜜を採取しています。

中学校に行かなくなった僕は鶏の世話とハチさんのお手伝いもやり始めました。

 

決して経済的には裕福ではありませんでしたが父が食生活にとことん、こだわりこんな仕事をしていたので、その仲間たちもこだわりの生産者で、常に本物の食材に囲まれていました。そして僕の舌はどんどんと肥えていきました。

それがこの後自分の仕事にこんなにも繋がってくるとは思ってもいませんでした。

 

はじめは言われたようにやってるつもりでも父には『全然できてない!仕事のやり方っていうのは〜』とよく怒られましたが、学校の勉強は苦手でしたが、持ち前のアイディアと器用さで次々と仕事を覚えていきました。

ここでちょっとした職業訓練というか、仕事のやり方みたいなものを学びましたね。

おいしいお菓子がないので、自分が食べるお菓子を作り始めた

 

中学生時代、時間はたっぷりあり食べることも作ることも好きだったため、食べたいものがあれば家にある材料で作り、お菓子屋さんも自力で行ける距離ではなかったのと13歳の頃、喜んで食べていたケーキにもなんだか飽きてしまいました。

 

家には全10巻の料理やお菓子、世界の高級品、工芸品などが紹介された辞典のような分厚い金色の本がありました。うちの母は騙されやすい性格なので多分訪問販売で買ったのでしょう。

食べたいお菓子があればその本のレシピを見て作り、アップルパイが好きだったので生地を折り込むところからやりました。騙されて買ったとはいえ母の本は今思えば伝統的なフランス菓子のレシピだったと思います。

追求したくなるのは父親譲りのようで、美味しい卵を使ったシフォンケーキなども少しずつ配合を変えて研究して作っていました。

 

うちの近くでは年に一回、いろりのある古民家を一棟貸し切って作家たちが作品を展示販売するアートイベントがあり、物心ついた時からそこにも行って遊んでいました。

炭に火をつけて焼き鳥を焼いたり、作ったお菓子を作家の人たちに食べてもらったりしていると、『お菓子売ったらいいやん!』と言ってもらって初めてお菓子を売った時は値段はいくらでもいいです。と言ってお客さんを困らせました。

 

そして17歳の頃、ひょんなことから地元のスキー場でお菓子を販売させてもらうことになり、週に2回程度冬の時期にシフォンケーキを焼きに行ったりしました。

そこではシフォンケーキを気に入ってくれていたリピーターさんもついてくれて、お菓子を売るのって楽しいなーと感じました。

20歳でショコラを学ぶために世界チャンピオンにいきなりの直談判

 

ちょうど20歳の頃、小学校2年から始まったカーライフですが、車好きの地元の友人たちと一緒に遊んでいました。すっごく楽しかったのですが、自分はこのままで良いのかな?と脳裏をよぎったのです。

もう20歳だしそろそろ一生続けたいと思える仕事を見つけたいと思ったのです。

 

ある日、家業の手伝いをしていた僕は母親と一緒にはちみつの納品で得意先の旅館に行くことになりました。旅館の女将さんと話をしているとどうやら息子さんも僕のひとつ上の歳でで料理の勉強をしていると聞き、僕は家でショコラを独学で作っていて、ショコラの勉強をしたいと思っているという話をしたのです。

すると女将さんは、『ショコラなら世界チャンピオンが近くにいるじゃない!』と言われたのです、女将さんが言うにはうちから車で1時間ちょっとの距離にショコラの世界大会でチャンピオンになって地元に帰ってきたシェフの話をしてくれたのです。

こんな田舎にショコラのスペシャリストがいるなんて想像もしてなかった僕は、すぐ次の日に車を走らせその世界チャンピオンをその目で確認するために出かけました。

 

1時間ちょっと車で走りその間色々考えました。うまく話せるかなとか、まーみんなが考えそうなことです。そして息を弾ませお店の前に立ちました。見た目はとてもこじんまりとした老舗の洋菓子屋で中に入るとシェフの奥様らしき人が接客してくれました。

僕は気になるお菓子とショコラを数個注文して『シェフはおられますか?』と聞くと今は手を離せないということで、出てきてもらえませんでした。

見た感じ家族経営で他のスタッフはいないように見えました。

そして奥様に帰り際、どうせ同じ時間を使い学ぶなら一流の店で働きたいと思い。ここで働きたいということを伝えてもらい、後日電話することにして店を後にしました。

家に帰りその夜、緊張しながらお店に電話しました。シェフにつないでもらい僕は『週1回でもいいのと給料はいらないので働かせてくださいとい!』と言うとシェフは『今何歳?』と聞き

『20歳です!』と答えると『それじゃあ一回ご飯でも食べながら話ししよか!』ということで面接の日が決まりました。

どんな手を使ってでもそのシェフのお店でショコラを学びたいと思った僕は、独学で作っているショコラを無謀にも世界チャンピオンに食べてもらうために持っていくことにしました。面接といっても場所はイタリア料理のお店で、ランチをしながらこれまで学生時代からの話や体調も完全ではないので、毎日は働けないということも聞いてもらい、家で作ってきたゆずのショコラともう一種類はなんだったか忘れましたが、2種類のボンボンショコラを食べてもらいました。

シェフの感想は『んーもうちょっとで売り物やなと』と言って評価してくれました。

とても美味しいランチだったと思うのですが、緊張のあまり全く味わうことができなかったのは10年たった今でもよく覚えています。

『ちょうど繁忙期に向けて人を入れようと思ってたところだから来週から来たら?』と言ってもらい。求人を見て行ったわけでもない、僕は結構すんなりとそのシェフのお店で働くことになりました。

思ったことを口に出してそして、すぐに動いたら結構すぐに叶ってしまいました!

 

業界では異例の速さ、25歳での独立

 

給料はいらないですと言ったもののシェフは僕に『他でそんなこと言ったらほんまに給料なしで働かされるで!』と笑いながら言って、週一回からのアルバイトで体調を見ながら増やしていけば良いと大変理解のある方でした。

往復2時間30分の道のりでしたが若かったのと車の運転が好きだった僕は雨の日も雪の日も通い、次のバイトまでにショコラの試作をしてシェフに持っていき、批評してもらうということを毎回繰り返しました。

新しく試作したショコラを持っていかない日があると、シェフから『今日はショコラ持ってきて無いん?』って言われるくらいに結構シェフも楽しみにしてたみたいです。

 

仕事場では午前中はシェフの仕込みを尻目に洗い物、洗い場にはシェフが作ったクリームのついた器具が次々に突っ込まれます。

それをなめて味を頭に入れ仕事にも慣れてくると今度は横目でシェフの動きを見ながら洗い物をして仕事の流れも頭に入れました。その辺のやり方は父親に叩き込まれたため、すでに見て仕事を覚えるということも身につけていました。

 

午後からはシェフの目の前でケーキをフィルムで巻いてトレーに乗せたりその次はケーキの切り方を教えてもらいと少しずつできることが増えていきました。

毎日チャンピオンが目の前にいるので、たくさん質問してお菓子の疑問やショコラの科学的な話なども聞き、独学でずーっと悩んでいたことも次々と解決していきました。どんな難しい質問でもすぐに答えてもらえるという僕にとっては夢のような環境でした。

いつも出勤時間より1時間は早く着き、すぐ風邪をひいていた学生時代と打って変わり一度も休むことなく通いました。

仕事はハードでしたが、辛いという感覚は無く毎日学ぶことがあり、僕はお菓子以外のこともスポンジのよう吸収しているのが自分でもわかるくらいでした。それからは週2回、3回と徐々に出勤も増えていき2年半後には週6日働けるようになっていました。

 

自分がやろうと決めたことなら達成できるということがわかった経験でした。

 

実はシェフは初めて僕と会った時に連れて行ってくれた場所がありました。それは新しいお店の建設予定地で市民プールがあった場所。

そこで3年後にはここ店を立てるからそこで元気になったらオープニングスタッフとして働けたらいいねと言ってくれていました。

 

2年半経ってその時の言葉が現実になり晴れて新店舗のオープニングスタッフとして働くことになりました。

その時僕は若干23歳でしたが、店の看板商品であるショコラ部門の製造を任せてもらいこれまでに経験したことのない量のショコラを一人で作ることになりました。

今思えば若造の僕にすべて任せてくれたシェフの器の大きさはすごいと思います。

 

バレンタイン前には新宿と京都の伊勢丹での出店もありその時期は本当に忙しかったです。生活の中心がショコラで、本当にそれ以外のことはあまり考える暇もない感じでした。

夏場は冬と比べると仕事量は減るため、週一回の休日はプロ向けの技術講習会や食べ歩き、夏休みは3日くらいあったのですが気になる店に行って一日研修させてもらったりとまさにお菓子づくしの毎日でした。

ショコラは専門的に、生菓子(冷蔵販売のケーキ類)と焼き菓子の基本的なことは一通り学びました。

 

 

でも、たまにお店で販売に立っているとお客さんから『ショコラ美味しかったです』とか言ってくれるのですが、確かに自分が作ってはいるのですが、シェフの配合でシェフのショコラを作っているわけで、自分のショコラではないし、なんか嬉しいとかそういう感覚はありませんでした。

そして24歳のとき来年独立するということをシェフに伝えて、実家がある場所で小さな工房を構え店舗を持たないスタイルで独立することにしました。

 

これまでのお菓子屋のシステムを覆すお菓子屋のスタイルを追求し続ける

 

現在の一般的なお菓子屋のスタイルで独立するには店舗の改装費や家賃、数々の高額な製造機器が必要で場所や規模でも異なりますが、他の飲食業と比べても初期投資額は膨れ上がります。

なぜならこのスタイルでは手作業プラス機械を使い、少ない人数で数多くの種類のお菓子を、少量づつ作るという、効率面だけを考えると大変に非効率な仕事をしています。

そのため機械を何種類も揃えるために頭金を貯めたり、たくさんの仕事を覚えてからという考えだと修行10年。独立時の年齢は40歳以上というのが普通の業界です。

 

ですが、うちは作る商品をショコラと焼き菓子に絞り、一番時間がかかり、なおかつ利益率の低い生菓子を作らないことにより仕事量を減らして利益率をあげることと、業務の簡素化による効率化を図りました。

そして店舗を持たないことで家賃はもちろんのこと店舗の改装費やその維持費、一番大きな経費である販売員を雇用せずにその人件費をカットする方法を選びました。

 

うちの工房がある場所は1日中待っていても通行人は近所のおじいちゃん、おばあちゃんでホント5人通ったら良いほうという田舎の中の田舎です。

ですがインターネットの光回線も入りました。つい最近、遅ればせながらですが。

宅配便もちゃんと来てくれるので、ネット販売に関しては問題ありません。

そして週末は色々なところに出向き移動販売もできます。

はっきり言って人の集まるところに高い家賃で店舗を構えなくても、考え方ひとつでやり方はいくらでもあると思っています。

 

開業から3年以内に潰れる店が多いという業界で独立して4年半が立ち、年々大きな仕事もいただけるようになりました。

3年経っても潰れていない店として認知されたのか、最近では開業時にはこちらから伺っても相手をしてくれなかった業者さんたちも向こうから来てくれるようになりました。

 

そしてまだオフィシャルで発表されていませんので詳しくは言えませんが、来年は修行時代から夢であり、職人たちが目指す一つの到達点とも言われる場所に立たせていただくことが決まりました。

 

今回はさらっと書きましたが、何らかの理由で不登校になったり、学歴が無いことに対するコンプレックスをお持ちの方、また現在悩まれている親の方のほんの少しの希望になれば大変嬉しく思います。

 

 

独立してからのお話はまたの機会に別の記事で書く予定にしていますのでお楽しみに。

 

 

 

 

ここからはルフルーヴに寄せられたお客様の声を少しだけ紹介します。

 

数あるお店の中からルフルーヴを選んでいただいたのはなぜですか?

N・Y様  アップルパイが今まで食べた物の中で一番美味しかったから

野見山 様 美味しさが秀でていたから

T・H様  個性的なチョコで美味しいと聞いたので

K・M様  信念があるから 

I・K様  販売していたパイが美味しそうだったから

実際に食べた感想をお聞かせください。

N・Y様  美味しい。

野見山 様 一頭地を抜いて美味しい

T・H様  繊細で、個性的な味、とてもこだわりがある

K・M様 美味しい、身体のなかから元気が出る、素材の味がする

I・K様  中身はルバーブと何かだったと記憶していますが、酸っぱさと甘さが共存していて、外はサクサクの食感でした。

今から来るお客さんに一言お願いします。

N・Y様 一度実際に自分の口へ運ぶと言ってたことがわかりますよ(^^)

野見山 様 ルフルーヴを選んだあなた、正解です!

T・H様  何処にもない、此処にしかないチョコです

K・M様  人生最大のピンチのときに元気が出るもの、あるいは、だれかを励ましたいときに安心して渡せるもの

I・K様  まずは、食べてみてください。今まで食べていたお菓子とはちょっと違います

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